料理は手料理!勢に聞きたい
食べる側でありながら「料理は手料理に限る」という人に理由を聞くと、「手作りじゃないと愛情が感じられないから」と返されることがある。
その簡単に口にされる「愛情」は、シュフの毎日の手間と膨大な時間の上に成り立っているものであり、簡単に強制して良いものではないだろう。
というよりそんなに手料理が良いなら自分で作れと言う話だ。
家電の方が美味い料理を作れるという現実
また、すでに家電の方が美味しい料理を作れるようになっている。
食洗機を推すと「汚れが落ちなそう」だとか(何度も言うが食洗機は手洗いでは不可能な60度程度の高温で洗浄するので手洗いよりも汚れは確実に落ちる)、
ホットクックを推すと「愛情がない、美味しくなさそう」だとかいう反応が来るが全て新しいものへの拒否反応と思い込みだ。
煮込み料理は絶妙な加減で食感を残しつつ食材を煮込んでくれるし、固くなりがちな肉もホロホロに柔らかくしてくれる。
手料理は上手くできる時やそうでない時、そして味の好みがあるが、家電でつくる料理は常に高水準で完成するところが大きなポイントだ。
大事なのは「常に同じ」という部分だ。人の手では「常に同じ」というのはかなり難しい。
また蒸し野菜は味付けなしで驚くほどに甘く、美味しくなる。
野菜があまり好きでなかった子供達も蒸し野菜を作るとあっという間に食べきってしまうほどだ。
漫画「AI家電の発達した未来」より
(料理の味だけは文章で伝えることができないのが残念である…特にかぼちゃ蒸しは物凄い甘みだし、勝間和代さんのブログでも紹介されている玉ねぎスープは人生が変わるレベルで美味いのでホットクックユーザーは必ず試して欲しい。)
簡単に愛情を要求するのは間違いである。
シュフに簡単に無償の愛情を要求するのは間違っている。
シュフは家事育児に日々奮闘しているが、人間である以上無限に続けられるわけではないし、疲れれば潰れてしまうことも当然ある。
特に毎日のことである皿洗いはすぐにでも食洗機に任せるべきだし、料理も自動化してしまう方がいいだろう。
炊飯器で米を炊くように、おかずが自動化できるというのは本当に楽である。
そしてシュフに愛情を要求する人には逆に聞きたいが、作り手に対する愛情はどうなのか?
作り手からの愛情が手作りであるならば、食べる側からの愛情はどういう形で表現するのか。
まさか「美味しい」という言葉だけ十分だと思っているのだろうか?
美味しいという言葉は万能じゃない
確かに美味しいという言葉は重要で、料理を食べたら作り手に感謝を込めて必ず言うべき言葉だ。
だがそれだけではバランスがおかしいだろう。
食べる側の「美味しい」に対し、作り手は料理に数時間というのはあまりにも歪だ。
調理をAI家電に任せて作り手の手間を減らしても、結局献立決めや食材の調達、管理や食材のカットなどはまだまだ人間の仕事。
なら調理はAI家電に任せるくらい容認しても良いではないか。
逆にそこを容認することこそが作り手に対する愛情ではないのだろうか。
そして既に人よりも家電の方が美味しい料理を作れるようになっている。もう作り手も食べる側も、手料理にこだわる必要はなくなったのだ。
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