今回は俺の子育ての…どちらかというと失敗談である。
いつもはどちらかというと書いていて恥ずかしかったりもするブログだけど、今回は多くの人に読んでもらいたいと思う珍しい記事になりました。
すべては子供のため
子供には芸術に触れてほしかった。
なんでかというとそれが子供に「良さそう」だからであった。
多分理由はそれ以上でもそれ以下でもない。
奥さんも同意見で、大きい展覧会や小さい個展まで気になるものはどんどん連れて行った。オーケストラも、ピアノリサイタルも安くはないがS席を取った。
それが子供に「良さそう」だからであった。心の底から信じていた。
そんなある日のことだ。
そう、あれは文化庁メディア芸術祭に行った次の週のことだったかな。
週末はどこに行きたい?と娘に聞いた。
すると娘は少し考えたような、申し訳なさそうな顔をしてこう答えた。
「パパ、遊園地行きたい。実はね、美術館つまらないんだよね…」
「良さそう」なものの罠
子供の申し訳なさそうに呟いた「本音」を聞いて、俺は本当に驚いた。
何故か?確かに子供がつまらなそうな顔をすることはあった。退屈してるなと感じることもあった。
しかしその発言の直前に行った文化庁メディア芸術祭は控えめに言っても面白かったのだ。
文化庁が主催するアートとエンターテインメントの祭典であり、体験型の芸術祭で静かに眺めるようなものでもなかったし、子供もたくさん走り回っていた。子供は積極的なアトラクションのようなアートを楽しんでいたし、俺自身も楽しかった。
しかしすべては親の自己満足だったのだ。
子供をアートに触れさせているという親の自己満足。
情操教育をしているという思い上がり。
そこに娘の気持ちはどこにもなかった。
「良い」ものは否定されにくい
音楽だとか、アートだとか、そういう子供の教育に良さそうなものは疑われることがない。それがその子にとって本当に必要なものかどうか考えられることはなく、一方的に押し付けても「教育だ」と許される。
それは世間一般で「良いもの」とされているからだ。
世間一般に良いとされているものは疑われることはなく、むしろそういうものに子供を触れさせていると周囲も親を褒めるので一層良いものだと信じられていく。
「良いもの」を疑え
俺は子供を美術館に連れていくことをやめた。
週末は無理して出かけず公園に行き、そこで会った娘の友達と駄菓子屋に行き、家に帰ってゲームをする。そしてたまに遊園地に行く。
子供を無理に親の思い込みに付き合わせて申し訳なかったと反省している。
子育ては世間の「良いもの」との闘いである。
しかしそれらはすべて「ただの手段」である。
代替え可能で、手段が目的になる必要はない。
目的は何なのか。
その行動の先に何があるのか?
肝心の子供本人の気持ちを聞いたことがあるのか。
もしも良いと信じて一度も疑ったことがない習慣があったら、世間の「良さそう」をあなたも一度疑ってみてほしい。
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